#リスタートの朝に
朝4時50分。
家の中がまだ“寝息の気配”で満ちている頃、
私はそっと布団から起き出した。
主婦の朝は、
だいたい“自分の気配を消すところ”から始まる。
階段をギシらせたらアウト。
冷蔵庫を勢いよく開けたらアウト。
スイッチの“カチッ”なんて押した日には、
家じゅうで“めざましテレビ”が強制起動する勢い。
もちろん、
めざましジャンケン・じゃんけんポンと言われても、
早朝の主婦にじゃんけんする余裕はない。
台所の蛍光灯をつけると、
朝の台所には、人生の全部がにじんでる。
炊飯器の保温ランプ、
昨夜洗った皿の乾ききってない感、
冷蔵庫に貼った買い物メモ、
誰が食べたのかわからない食パンの欠片。
あぁ……今日もこれから戦場だわ。
このため息も、もはや毎朝のルーティーン化。
そう思いながらも、まずはお弁当の用意。
冷凍食品をレンジに並べ、
卵焼きを先に作ろうか、
それとも味噌汁を作ろうか……
主婦の朝は“瞬時の判断ゲーム”。
なんというか、
主婦の朝は、
毎回“前日の続き”から始まる。
という、あの独特の朝の倦怠感。
卵を割ろうとした瞬間、手が止まった。
はあ~。私、毎日何してるんだろ。
そうつぶやいたちょうどその時、
背後からひゅっと気配がした。
ニコ
「その卵、もう人生の疲れが混ざってるわよ。」
「ぎゃあああああああッッ!」
驚いて卵を床に落としそうになった。
「だ、誰ですか!?」
振り返ると、
昭和のスナックから抜け出したような女が立っていた。
朝5時に。
キッチンに。
堂々と。
派手なスカーフ、妙にいい香り、
そしてこの時間にまったく眠そうじゃない目。
ニコ
「はい、ニコです。
人の“やる気スイッチ”を勝手に押すのが趣味の者です。」
「趣味の者? なにその肩書き!」
「ちょっと…なんで家に!?鍵…!」
ニコ
「あんたの朝のため息よ。
あれねぇ…住宅街中に響くのよ。
ワタシ、アンタのため息で起きたんだから。」
「え?どんな受信機能よ。
っていうか、どこから入ってきた?」
ニコ
「鍵なんていらないわよ。
朝のため息センサーで飛んで来たの。」
「どういうこと?」
ニコはテーブルの前に座り、
湯飲みを勝手に手に取って匂いをかいだ。
その瞬間、ため息まじりに。
ニコ
「あんたねぇ…心が疲れてる人のお茶って、
なんか“人生薄め”の匂いすんのよ。」
……朝5時から刺してくるのやめて。
「いや、普通のお茶ですけど!?」
ニコ
「いやいや、“人生の薄まり具合”が滲み出てるのよ。
ほら、冷めたお茶ってなんか哀愁漂うじゃない? あれよ。」
妙に説得力あるのが腹立つ。
でも、図星で言い返せなかった。
そしてちょっと笑ってしまった自分が悔しい。
ニコ
「で?今日の沈殿理由は?」
「沈殿って…その言い方!」
ニコ
「主婦の疲労はね、
味噌汁みたいに底にたまるのよ。
放っておいたら“濁りスープ”になるわ。」
味噌汁か私か、どっちを言ってるのか分からない。
ニコはキッチンを見渡し、ため息。
指にはギラギラと光る、立派な“みどり色の指輪”。
次の瞬間、
彼女はその指輪を迷いなく舐め始めた。
「え?
あ?
まさかの??
ちょっと待って???
それ……
指輪キャンディー!?
え、まだ売ってた?」
文化遺産すぎる。
少し羨ましい自分がいた。
そしてニコは、説教前の深呼吸みたいな顔で、
しゅぱっ。情緒ゼロのひと舐め。
ニコ
「昨日の夕飯を“今日のアレンジ”って言って出したわね」
"出した"
「しゅぱっ。」
ニコ
「子どもの上履き洗い忘れたやつ、さっき思い出しただろう?」
"思い出した"
「しゅぱっ。」
ニコ
「旦那の靴下、また片方しかなかったでしょ?
"なんで毎回帰ってこないのよあいつ"」
ニコは肩をすくめた。
ニコ
「主婦の朝なんて、
どこの家庭も“昭和のドラマ再放送”みたいなもんよ。」
しゅぱっ。
キャンディーの舐め音で説得力が薄まるのが悔しい。
でも言われると妙に納得してしまう自分がもっと悔しい。
知らない女なのに、本音がこぼれた。
最近、ご飯がワンパターンで…
ニコはヒラヒラした手の動きで遮りつつ、
指輪キャンディーを回転させながら、しゅぱっ。
ニコ
「分かってるわよ。
あと、冷蔵庫の奥に眠ってた“謎のタッパー”、
昨日やっと処刑したわね。」
ぎょ。
見てたの?
監視システム精度高すぎ。
ニコはさらに続けた。
指輪をキラキラさせながら、少しだけ優しい顔で。
ニコ
「でもって、あんた。
家族の“忘れ物リマインダー”にもなってるでしょ?
朝のあなたの会話は、ほぼこれ。
ねぇ、部活のユニフォーム洗濯に出した?
お父さん、お弁当箱どこやったの?
今日までの提出プリントどこに置いたの!?」
ニコはうなずき、ため息を吐いた。
ニコ
「主婦ってね、
家族の人生は秒で支えるのに、
自分の人生は“下書き保存”のままなのよ。」
その瞬間、
ニコの動きがわずかに止まり、
キャンディーが小さく光った。
そして、
私の心のど真ん中に直球が刺さった。
ニコ
「じゃ、始めるわよ。」
「なにを!?」
ニコ
「心の温度・強制リセット講座。朝限定よ。」
「講座名うるさいわ。」
ニコは私をじっと見て言った。
ニコ
「あなたの、“ありがとう”が蒸発してる。」
「家族には言ってますけど……?!」
ニコ
「それは“業務用ありがとう”。
心に効くのは“自家製ありがとう”。
今日も早起きした私、ありがとうってやつよ。」
「はあ?」
半信半疑の私に、ニコは平然と続けた。
ニコ
「脳みそってね、
誰が褒めてるかなんて区別できないの。
自分で褒めても“わぁ私ってすごい!”って喜ぶのよ。」
「……脳って単純。」
ニコはさらに続けた。
ニコ
「大人ってね、毎日無意識に
なんでできないんだろって
自分を何十回もいじめてるのよ。
あれが“自己否定の書き込み”。
だから上書きすんの。
今日も早起きした私、えらいってね。」
胸がじわっとした。
卵より先に私が割れそうだった。
「自分に、ありがとう……?」
ニコ
「そうよ。
主婦って一番自分を後回しにする生き物だからね。」
胸の奥がじんわりした。
ニコ
「で、次。宣言よ。」
ニコは勝手に鍋にほんだしを振り入れながら言った。
「宣言?」
ニコ
「そう!
未来は“今日のひと言”で動くの。
私は今日、私をあっためる。
それだけで心の出汁が変わる。」
「そんなことで本当に……?」
ニコは笑った。
ニコ
「味噌汁だって、出汁1つで世界変わるでしょ。
宣言は心の出汁よ。」
言葉が胸をあたためた。
ニコ
「私は今日、私をあっためる。
これだけで波動が黄金色になるわよ。
お鍋から立ち上がる湯気が、
朝の光に溶けて少し美しい。」
「そんな魔法みたいな…」
ニコ
「そうよ、魔法よ。
あんたが気づいてないだけで、主婦はみんな魔法使いなの。
家族の空気も、今日の流れも、
たった一言で変えちゃう力があるんだから。」
胸が熱くなった。
私は卵を混ぜながらつぶやいた。
「……誰も褒めてくれないんだよね。
ご飯作っても、洗濯しても、
忘れ物した!って怒られるのはこっちだし。」
ニコは急に静かになり、
湯飲みをそっと置いた。
ニコ
「……分かってるわよ。」
その声は、毒舌じゃなくて温かかった。
「主婦ってね、
家族の人生を支えながら、
自分の気持ちだけ“下書き保存”。
気づいたら、自分がいちばん置いてきぼり
になってる時があるのよ。」
涙が出そうだった。
ニコは静かに続ける。
ニコ
「だから言うの。
私は今日、私をあたためる。
今日の自分は、今日のあんたが救うのよ。」
胸の奥がじんわり灯る。
その時、2階でドタン!
続けて息子の
ママー!プリント明日までって書いてあったー!
さらに夫の
俺の靴下が片方ないんだけどー!
……現実、爆速で襲来。
ニコはスカーフを整え、時計を見た。
ニコ
「さて、そろそろ私は次の“朝のため息”のところへ行くわ。」
「行かないで…じゃなくて、
朝5時に勝手に入ってこないで!!」
ニコは笑った。
冷蔵庫の扉に小さな紙切れをペタッと貼った。
ニコ
「ほら。今日の“黄金の火種”置いとくから。」
次の瞬間、
勝手口から朝の空気に溶けて消えた。
ほんとこの人、どこから来てどこへ帰ってるの。
キッチンにはまだ湯気とニコの残り香。
私は冷蔵庫の紙を開いた。
今日、私は私をあっためる。
これが黄金の波動の火種。
ニコより
胸の奥でぽっと小さな灯りが灯った。
卵焼きの黄色も、味噌汁の湯気も、
家族の雑音さえも、
いつもより温かく見えた。
私は深呼吸して、
そっと声に出した。
今日、私は私をあっためる。
キッチンの空気が、
たったひと言でやさしくなった。
今日の私は、いける。


2025/11/15 10:00
